平山尊子
「洋子さんのサクラが咲いたよ。」という友人の知らせに、スプリングブレイクの週末、私は子ども達を連れ、バー・スクールを訪れた。その小さなサクラの木は、細い枝の一つ一つに信じられないほどたくさんの可憐な花をつけ、春と呼ぶには寒すぎるお天気をものともせず、プレイグラウンドの傍らに凛として立っていた。なんだかサクラの木までが、がんばり屋の彼女に似ている気がした。
私が洋子さんと知り合ったのは、日本語学校の年長さんのクラスだった。
一緒にスキー旅行をしてくれる家族を探していて、私が最初に声を掛けたのが彼女だった。以来、毎年のスキーにバーベキュー、忘年会となにかにつけ私たちは集まったものだ。お父さん達は飲み、お母さん達は喋り、そして子ども達もいい友達同士になった。
親しくしてみると、洋子さんはとても頼りになる人だった。
私がズボラで、なるようにしかならないと考えてしまう部分があるのだが、彼女は一つ相談すると、その答えを10種類も用意してくれるような人だった。その10種類はちゃんと根拠のある10種類で、彼女と話しているとトレビア問題の解答を聞いた時のように、「へえ〜」ボタンを何回も押してしまう。その知識は、その読書量の多さからきているのだが、彼女はこうと思ったら自分が納得のいくまで調べ尽くすタイプのがんばり屋だったと思う。彼女が亡くなった後、蔵書の一部をいただくことになったのだが、どの本にも鉛筆で線が入っていたり、書き込みがあったりして、ページをめくるたびに彼女がその時感じていたことを共有しているようで、とても嬉しかった。
また、洋子さんは企画することや人を動かすことが上手だった。日本語学校やバー・スクールで何かの企画に携わっている時の彼女は生き生きとしていた。
ずっと昔、まだ知り合って間もない頃、「子育てが落ち着いたら、尊子さんは何をするの?」と聞かれたことがある。もちろん私は目の前の子育てで手一杯、何年も先の話なんて考えたこともなかったが、下の子のトイレットトレーニングパンツを替えながらすでに子育て以後のことを考えている彼女を「すごい人だなあ。」と思った。
こんなことばかり書くと、彼女が完璧な近寄りがたいタイプの人間のように見えかねないが、洋子さんはそういう人でもなかった。よく笑い、ちょっぴりぬけているところもあって、そこが彼女の性格の愛すべき点となり、洋子さんの周りの人は、みんな彼女が大好きだった。これは私だけの考えかもしれないが、彼女の書く字は、その優しさや性格そのものだった気がする。それは何とも言えない丸みのある伸びやかな美しい字体で、カレンダーの走り書きさえ素敵に見えて、実は一度なんとかまねをしてみようとやってみたことがあった。もちろん上手くまねできるわけもなくて、あきらめた後はこっそり憧れるだけにした。
そんな洋子さんだったから、病気や治療についても自分で調べ上げたに違いない。彼女の話してくれた病気のことや治療法には、説得力があった。
だから私も友人達も、とても心配しながらも逆に彼女に励まされ、洋子さんだったらきっと治ってくれるんじゃないかという気持ちがあったのだ。誰もまさかそんな大きな怪物に戦いを挑んでいたとは、最後の最後まで知らなかった。
彼女が亡くなって遺品などの整理を手伝わせていただいた時、洋子さんが書いた闘病に対する決心や心構えのようなものを友人の一人が見つけた。その時その時で書き加えていったらしい鉛筆書き。その中の一つを見た時、心が締め付けられた。
「子ども達の成長を見とどける」ーーー彼女はどんなにかそれを願っていただろうに。その夜はなかなか寝つかれず、一人でダイニングテーブルで彼女のことを想った。涙が止まらなかった。洋子さんには涙の止まらない夜がいくつあったんだろう? その時私はのんびり何をしていたんだろう? そう思うといたたまれなかった。
あれから14か月。心が苦しくなるような気持ちは少しずつ薄らいでいった。
でもやっぱり風が吹いても木漏れ日が揺れても、洋子さんを思い出している。
思い出す時の彼女はいつものあの笑顔だ。心の中に生きているってこういうことなのかなという感じがする。家族を愛し、バー・スクールを愛し、ボストンを愛していた洋子さん。またいつか再会するときまで、話したいことをたくさん胸に貯めておこう。がんばり屋の彼女に笑われないよう、私なりに一生懸命生きてみよう。洋子さん、あなたと友達になれて本当によかった。
2008年6月22日
平山尊子
広報より
このエッセイは平成20年9月29日発行
日本ボストン会会報
The Boston Association of Japan #32 へ寄稿されましたが、誌面の構成上、掲載が見送られました。平山尊子さんのお許しのもと、ここに掲載いたします。