追悼 横野洋子さん


           1960−2007

   ボストンでの軌跡

 1992年 ご主人の転勤でボストンへ移住
 1994年 長男出産
 1995年 ハーバード大学大学院入学
 1997年 同 卒業
 1998年 次男出産
 1998年 日本帰国
 2000年 再度ボストンへ渡米
 2000〜2006年
     Burr School 及び
     Newton Day Middle School のPTO、
     日本語学校、日本人会婦人部にて活躍
 2006年3月 メラノーマと診断された
 2007年2月 家族に見守られながら永眠




横野洋子さんと婦人部
     
        吉野静子

 婦人部の歴史を語るとき横野洋子さんは忘れてはならない方です。 過去形で語らなければならないのは非常に残念ですが昨年2月に皮膚がんで亡くなられました。享年46歳でした。婦人部の次代を担う逸材を失ったことは非常に大きく残念でなりません。 

 1992年、婦人部発足まもなく、婦人部財政の基盤となるボストンのガイドブック(ボストンへようこそ)が企画された折りに、編集委員の一人として婦人部に入られたのが洋子さんとの関わりの始まりでした。

 それから後、お料理の本「るるる」(作る、食べる、かたずけるの意)Ⅰ、Ⅱの出版に際しては編集長としての腕を遺憾なく発揮して大役を果たしてくださいました。

 ガイドブックの編集時、ご長男を出産され、雄飛と名付けられ、生まれたばかりの赤ちゃんをバスケットに入れて編集会議に出席されていたのを昨日のことのように鮮明に思い出されます。

 「るるる」Ⅰ 完結後の1995年、渡米以前にキャリアー・ウーマンとして外資系の銀行で働いていた経験を生かしてハーバード大学大学院ケネデイースクール オブ ガバメントに入学、卒業をまじかにして次男翔勇を妊娠、再び「るるる」Ⅱの編集、と活躍され1997年に無事卒業されました。
 
 1998年日本に帰国され、2000年に再度ボストンに来られてからはパワー全開、地域社会、現地校、邦人社会特にボストン日本語学校運営委員として又ボストン日本人会婦人部役員として大きな功績を残されました。
 
 ここに横野洋子さんの功績を称えると共に衷心よりご冥福をお祈りしています。




  洋子さんの想いで

     平山尊子

 

 横野さんを想う時、まず真っ先に浮かぶのは、はつらつと日本語学校の廊下を闊歩する姿です。もうその笑顔を見ることはできないのだと、誰が想像できたでしょうか?日本語学校になくてはならない方を亡くしてしまった・・・と,たくさんの人が感じていると思います。
 
 横野さんは下のお子さんが小学校に上がる前後から、PTAの活動に積極的に参加されるようになりました。ご主人と一緒に安全パトロール委員をなさったことを始めに、2002年4月から2003年3月まで、ウェルケア委員会を設立しその委員長として保健室の立ち上げに尽力されました。また同時に,学校としての食品アレルギー対策もまとめられました。

 2003年4月からは、運営委員会に属し,安全委員長として学校安全活動、スクールポリスの導入・保健室の充実などに貢献されました。

 発病直前の2006年初旬には,息子さん達が通っていたニュートンの学校でインターナショナルフェアの企画メンバーに加わり、大成功を収めたとうかがいました。また、これより少し前には、息子さんのプレスクールでの折り紙ボランテイア経験を生かし、「親子のための折り紙12か月」という横野さん手書きの図解の付いた、素敵な冊子もまとめてらっしゃいます。

 様々な方面での活躍・・・その企画力とアイデアは、まさに[スーパー横野さん]でありました。本当に言葉に尽くせないほど惜しい方を亡くしたという想いで一杯です。しかし、彼女が手がけた事の数だけ、そして、そこで触れあった人の数だけ、たくさんの人の心に彼女は生きているのだと信じつつ、今は洋子さんの冥福をお祈りしたいと思います。


 広報より

 この二つのエッセイは、日本ボストン会会報 
 The Boston Association of Japan #32  
 平成20年(2008)年9月29日発行に掲載されました。